column No.034
自分の徳が、仏様の徳となる
日蓮聖人は「お釈迦さまが菩薩としての修行時代に積んだ功徳と、悟って仏になられ仏としての徳が、妙法蓮華経の五字の中に入っている、具わっている」と言われています。
菩薩として、仏に成る為に行ったこと(仏になる因)と、仏に成った徳、これを「因行果徳」と言います。
私たちが南無妙法蓮華経と唱えているときは、広大無辺なる仏の生命、世界に入っているのです。十界曼茶羅の中に入っているわけです。
つまり仏のお使いとしての私たちの信仰、菩薩行(世の中が平和になるために奉仕の気持ちで頑張る行い。布施の行い)は、十界曼茶羅の中の九界(因)の行いにもなるのです。
私たちが法華経、仏を信じて、身、口、意にお題目を唱えるということは、仏の使いであり、自分自身の功徳であると同時に、仏様の功徳ともなっているわけです。
仏の広大な生命の一部分
私たちの因行と果徳が、お題目の中に入っているわけですから、私たちの菩薩行が仏様の因行として、十界曼茶羅の中の九界の活躍になる功徳をどんどん積み、溜め込ぬことになるのです。
日蓮聖人や弟子・信徒など、遠い昔からの菩薩行をしてきた方々の功徳が込められている。私たちもその行いを受け継いでいかなければ成らないのです。
つまり私たちが信仰することによって、仏様、曼茶羅より功徳を頂きながら同時に、逆に功徳を送り込んでいることになるのです。とても有り難いことなのです。
それは私たちの信仰が仏のお使いとして活躍し、同時に私たちの中にある仏の活躍でもあるということです。
「所化(導かれる私たち)以て同体」と日蓮聖人は言われているのは、私たちが仏の広大な生命の一部分であるからです。
平成19(2007年)年01月01日発行 第58号より