釈迦の心⑭ – 本因本果

圓福寺だよりコラム「仏音」

 

column No.027

 

因と果が同時に存在する「本因本果」

 

法華経には、仏の弟子は遠い昔(久遠)より弟子で、仏も遠い昔より仏であったと、もともと弟子、もともと仏であると、説かれています。

 

仏は、仏の因になる修行を重ねた結果、仏になったのではないと。さらに寿量品で、仏は私が過去に菩薩として修行していたときの寿命が、いまもまだ続いていると。

 

今までとは違った、常識では考えられないことをいいます。菩薩として修行し、終わって仏になったのではないということです。

 

例えば、リンゴの木が根から養分、水分を吸収し、太陽の光を葉が浴びて(因)、リンゴの実が成った(果)のではないのです。

 

因の始めなく終わりなく、果の始めなく終わりない、ということが示されたのです。つまり因と果が同時に存在していたことです。

 

これが「本因本果」ということで「十界互具一念三千」が成り立つのです。

 

 

仏と共に進化する

 

因と果の間があると互具といえない、仏界と他の九界が互いに具わりようがなくなってしまうのです。妙法蓮華経の蓮華とは種と果が同時という意味があるのです(蓮の花は種と実が同時にできる)。

 

本当の仏とは、迷い、執着者には見えない。逆立ちした状態でみているように、正しく見えない。心を正しく素直に仏の生命の中で、私たちは一緒になって仏と共に進化し、成仏を目指しているのです。

 

仏の心の中に存在し、私たちは仏の髪一本か、爪先か、仏のほんの一部、歯車のようなものです。

 

大宇宙の生成、破滅も、この世の災いなども仏の永遠の生命を顕わすための細胞分裂のようなものです。

 

 

 

平成15(2003年)年07月11日発行 第51号より