釈迦の心② – 真実の教えは最後に

圓福寺だよりコラム「仏音」

 

column No.015

 

お釈迦さまが悟られても、当然周りの人々は小さな心で恨み、妬み、争いと、相変わらず生老病死の苦の世界で悩み苦しんでいます。

お釈迦さまは何とか自分と同じ悟りの喜びを全ての人々に味わってもらいたいと強く思いました。

 

真実の教えは最後に

しかし、お釈迦さまと人々の気持ち、考え、行いには雲泥の差があります。真実の教えを説いても分かってもらえない。かえって軽視する。そこでお釈迦さまは考えました。

「過去にこの世に出られた仏の行いのように、私も浅い教えから深い教えと順序立てて説き、最後に真実を説こう」と。

そして、42年後まで本当の悟りの意を打ち明けられなかったのです。

神楽坂 圓福寺にも悩みを持った人が相談に来ます。しかし、お釈迦さまの本当の教え、法華経の教えを初めから話しても相手は喜んでくれません。

そんなことより、自分の現在の悩み、例えば病気、家庭、職場、人間関係、親、子供の問題、金銭的なこと、様々な悩みで相談に来るわけですから、初めから仏教の真実の教えを聞きに来る人はまずいません。

そこで、相手の悩みをよく聞いて相手の悩みに応じた話から入っていくのです。

 

悩みには必ずヒントがある。

その人の生活環境、行い、先祖の事、などを聞いているうちに、大体悩みの原因・ヒントが分かるものです。

詳しいことは除きますが、まずは自分自身の遠い遠い過去世から現在までの罪と、先祖の犯した罪の罪障消滅の唱題行と、苦しんで頼っている霊(因縁)の心からの供養を大切さをお伝えします。

それによって気持ちに変化が出てきます。そこから本当の法華経(お釈迦さまの本当の教え)の大切さをお話するのです。

もちろん、話を聞いただけで帰ってしまう人、二、三回来てやめてしまう人、色々な人がいます。

お釈迦さまは悟りの知慧と大きな力を持っていますから、相手によつて説き方、内容も違い、後に膨大な教えが残ったわけです。

「随他意教」「随自意教」という言葉があります。

「随他意教」とはお釈迦さま本心の教えでなく、相手の悩み、考えに合わせて説かれた教えの事、法華経を説く前の段階、導く準備、方便の教えです。

「随自意教」とは、法華経の教えの事です。お釈迦さま自からの意に随つて説いた教えという意味です。